自己愛性パーソナリティ障害

備忘録です。読む方は読みにくいと思います。

 

私は自己愛性パーソナリティ障害だったと思う。昔からその気質が強かったが、今はそうでも無い。この症状は感染する。高校生ぐらいの多感な時期において、私がナンバー1!オンリー1!と言う人が周りにいて触発されたかどうかで人生の狂い具合がすごいんだから。実力と理想が乖離していても、そこに近づけようとする努力をしても空回り傾向が強い。結果を出した人でも見下し傾向があればこの症状に近い感覚がある。難しい症状だ。とにかくこんな人からは離れることが最善のように思えた。

今朝の夢

高校生の頃に両思いだった人が夢に出てきた。日常生活で考える時間はないのに、定期的に現れる。毎回どこからそんなに鮮明な記憶を呼び起こしているのかわからないくらい解像度が高くて懐かしい気分になる。底知れない優しさと包容力、無邪気で可愛くてすごい好きだった。あなたはいつも私をみつけたら一直線に走ってきた。今は幸せになっていたら嬉しいな。いや、幸せになってる。だってあなただから。さて今日も1日を生きようか。

私が考える文章を書くメリットとブログを始める理由

文章を書くメリットは

・考えが整理される

・現状を把握できる

・不安材料の認識ができる

・今後の見通しをまとめられる

・進捗状況の把握できる

・問題提起/解決を促す

など他にも山ほどある。

 

 

私が感じる1番のメリットは、刹那的である今考えている内容を言語化し記述することで心と脳がクリアになること。これは心と脳がデトックスをする感覚に近い。ととのうと言ってもいいだろう。Twitter(現X)で発信しまくってもいいだろうし、自分の日記帳に書きなぐってもいいかもしれないが、前者はネガティブな知らなくてもいい話が多く目につくし、人間関係のしがらみも疲れた。後者は大衆に晒されないから続かなくて、完全な自己満足で終わる。よってブログにした。Xでの調べ物として徹底的に調べても求めている回答の材料が足りないが、それでも答えが欲しい人には、そこまで調べ尽くした先にある何かしらを鼓舞したい。そう考えるとこういったブログを構えることが楽だろう。私は比較的哲学的な側面を持っているし、人生について考えることが多い。そんな人が集まって見てくれるようになったらそれもそれで面白い。なんのために生きるのかなんてずっと考えてる。頭がおかしい暇人かもしれないが、好きでやっている。話はズレたけど、書きたいことを書くということはみんなやった方がいいんじゃないのって思ったよ。

想起

私はある1人の女性に出会った。彼女が私の前に現れた時に人生が変わるほどの衝撃を受けたことは私以外現時点では誰も知らない。知らなくていい。私はボランティア活動をしていた。私にメリットがあり、相手にもメリットがある相互的に価値が生じる活動である。当時は私が若かったため、今とは比べ物にならないほどの活動力があった。誰かを救いたいと強く願う気持ちがそうさせたのだろう。彼女は集合場所がわからなくてどこにいるんですか?とメッセージを送る。私は今いる場所を写真で送り返した。その後すぐに何者かわからない人に肩を叩かれた。それが彼女だった。彼女と会った時に人生で初めて心が動いた。人生なんてこんなもん投げたいだとか、つまらなすぎていつ死んでもいいだとか思うところはいつもあって、何もかもをあることないこと決めつけていた。そんな時に出会った。この世界に光があったんだと思わせてくれる存在がいるとは奇妙な存在だ。

書いてて思ったがそれはただの恋では?

ありふれたただの恋だけど、ありとあらゆる偶然と行動が重ならないと発生したなかった出会い。それも恋か。